すんなりゴールは決められない、世界基準ですから [日記]
理性と本能のあいだ
とある昼下がり。
始発電車のシートに座り、発車するのを待ちながら、うつらうつらしていると。
電車が揺れ始めたので、やっと時間かと思って、目を開けたら、まだ動いていないので、こりゃ地震だなと考えながら。
まわりを見渡すと、みなスマホに夢中で、誰も気にしていない様子だし、もう一度うとうとしかけたとき。
揺れが大きくなってきて、案外デカイと思っていたら、あちこちのスマホが鳴り出して、あたりは騒然となり。
乗車して待っていた人の半分がホームに降りたけど、僕は眠いので。
たとえ高架駅から電車が落ちても、この席にしがみついてみせると、熱い決意ともうろうとした意識の中で。
車内に居座っていたら、 発車ベルが鳴って。
さっき降りた人たちが、急いで乗ってきた。
僕は、とても、驚いた。
そのあと結局、電車は安全が確認されるまで、なかなか動けなかったけど。
なんか、いろいろなことを考えさせられた。
なんか、にんげんっておろかでわらえるな。
もちろん、そんな僕を含めてね。
これからの時代に必要なのは大局観 [日記]
選挙カーが走る師走。無党派層には寒さが身に染みる季節がまたやってきた。
中学までは「民主主義ってすばらしい」と妄信していた当人も、義務教育が終われば「政治家なんてろくでもない奴ばかり。やっぱ独裁だな。聖人君子ひとりいればいい。なんなら俺にやらせればいいのに」などと冗談半分(必然的に本気半分)に思っていた。
現実はというと、そんな危ない人間にも等しく投票の機会は与えられる。主要なものだけ取り上げても、政策のすべてが一致する候補がいるとは限らない。それでも投票率をあげるため、とりあえず×を付けまくるために、しぶしぶ近所の小学校に出向く。
そのとき考えていることはきっと、ディストピアだけど一周回って実はもっともすばらしい世界っていうSFや、世界戦争でも宇宙戦争でもなく世代戦争がメインのお話。
事実は小説より奇なんだとしたら、悪い意味でなく、いい意味で面白い世界が望ましい。
などと、テレビで清須会議を見ながら思う夜。さぁいったい誰が後継者に選ばれるのか!? (映画もすでに見たことあるけど)
ムービングシェイパーはホントに効くんですか [vsG]
今まで経験してきたことや学んできたことをすべて、何一つとして忘れずに知識として蓄え続けることができたとしても…。
その実現性に関わらず、あらゆる可能性を考え尽くせるたくましい想像力を持っていたとしても…。
次の瞬間、まったく夢想すらしていなかったことが起こりうる。いや、いつか必ず起こる。
想定外の事態が存在しない完璧な「想定」は存在しない。起こりうる何事をも想定している「想定」は、もはや何も想定していないことと同じだ。
私にできる現実的なことは、想像を絶する被害をもたらすような想定外が存在しない適切な「想定」を適度に目指すことだ。
さて、想定をする際には判断の「基準」となるものが必要である。ここでは簡単に期待値を考えてみる。
この期待値は、想定されるイベントそれぞれについて、起こる確率にその損益を掛け、足したものである。
これが少しでも大きな正の値を持つように状況をコントロールすることが目指すゴールである。
ところで、なぜイベントGはいつでもKの精神にダメージを与えるのだろうか。賢明でなければならないKはリスクコントロールを怠っているのだろうか。
イベントGに関するKの精神状態の期待値Eは、0次近似で以下のようになる。
「精神状態E =(Gが出る確率)×(Gが出ることによる精神的損失)+(Gが出ない確率)×(Gが出ないことによる精神的利益)」
ここで、Gが出る確率を完全にゼロにすることは“不可能”であるということ以上に重要なことは、Gが出ないことによる利益がゼロだということである。
生まれてから20年近くGを想像上の生き物だと思っていたKにとって、Gが出ないことは何も特別なことではないのだ。出ないでしかるべきなのだ。
つまり、上式の右辺第2項が恒等的にゼロであるのに対し、第1項は必ず負の値を持つのである。Gが出る確率を限りなくゼロに近づけたとしても、デルタ関数的な精神損失には勝てない。
よってKの精神状態が救われることはないことがわかる。
どんなに状況を優位に保とうと道端でGとすれ違うことはあるし、肌寒さから秋の訪れを感じてもGと戦わなければならないことがある。
台風。異常気象。温暖化。デング熱。エボラ出血熱。G。人類の戦いは続く。
サウナ行こうよ [日記]
『プロローグ』
光あるところに影がある―。
確かに光があれば、必ず影もできるように思える。
しかし満面に広がる夜空を見上げると、闇こそがこの空間を支配し、その中に奇跡的に小さな輝きが存在していることがわかる。
また一方で、この世界のすべてがある一点から始まったとすれば、その膨大なエネルギーから文字通り最初に光あれと考えることもできる。
だからここではあえてこういおう。
光に向かうお前がいるせいで影が生まれるのだと。
(つづく)
『ほんとにあったこわいはなし』
開けられた窓の外から虫の鳴き声が聞こえてくる、ある夏の夜。これはアパトートの一室で偶然目撃された光景である。
「・・・ひょろひょろひょろひょろ」
おわかりいただけただろうか。
ふと目線が移された先の網戸になんとヤモリがいたのである。家主の男性によると夜間光を求めるヤモリの一匹や二匹が網戸に張り付いているのは珍しいことではないという(初めて目撃したときと、一度に二匹いたときはさすがにかなり驚いたらしい)。
しかしもう一度ご覧いただきたい。
「・・・ひょろひょろひょろひょろ」
おわかりいただけただろうか。
なんとヤモリは網戸の向こう側ではなく、こちら側にいたのである。家主によるとサッシがザルなせいでヤモリが内側にいることも稀にあるという。
危険を察知した男性がやおら立ち上がり静かに窓を閉める。
おわかりいただけただろうか。
なんということだろう。男性はヤモリに触ることができないのである。少年時代には躊躇なく触れたはずなのに、いつの間にか触れなくなっていたのである。これは昆虫類では特に見られる現象である。
そして次の瞬間、
「・・・ひょろひょろったっ、すたっ」
「うぁああああああああああああ」
なんとスクリーンアウトに失敗し、あろうことかヤモリが室内に侵入してきたのである。パニックに陥る男性、尋常ではない速さで動き回るヤモリ、さらにパニックに陥る男性、そして物陰へと姿を消すヤモリ…。
いったいどれくらいの時間が流れただろう。
夏の夜になんとも身の毛もよだつ嫌な事件であった。
『エピローグ』
君にはただの暗闇に見えるかもしれない。
しかしそこではたえず何かが生まれ、そして消えている。
結局何もないじゃないかって?そう結局はそういうことだ。要は考え方次第。
そこに何かを見出したとしても何の問題もない。
逆にいえば、何かを見出せるかどうかが大事ともいえるともいえなくもなくもない。
(なにか含蓄のあることをいってそうでなにもいおうとすらしてない台詞集より)
真実を知って得することなんてあるのか [日記]
情報が高度にグローバル化した時代、誰も彼もが前進し続けなければ生き残れない世界。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」 という。歴史が繰り返すのならば、歴史を学ぶことはたいへん役立つことになる。
だが、歴史とはそもそも何だろうか。
歴史観、歴史認識・・・、忘れる間もなく繰り返される歴史問題という名の戦争。国や立場によってすれ違う考え、まとまらない意見。何が正しくて、何が間違っているのか。
重要なことは、今この瞬間に起こっていることすら、真実を知ることは容易ではないということだ。どんなにネットが進化し、情報の共有がなされようとも、真実の共有はなされない。誰もが納得できる「真実」など存在しないからだ。
現在すら曖昧なのに、過去のことなど知る由もない。歴史は過去の事実そのものではなく、 現在の主観で整理された「過去」なのだから。そこに真実を見ようとするのは、最初から間違っている。
誰も本当のことはわからない。真実は歴史の彼方へと消え失せ、目に見える事実だけが私のもとに残される。
それでも「歴史」は繰り返す。
何一つ真実がわからぬまま、同じ過ちを繰り返す。
こんな世界、もう懲り懲りだ。
私は真実が知りたい。将来をより良いものにするための現在を生きるために。何が今この状況を生んだのか、その原因を知りたい。同じ過ちを二度と繰り返さないために。
ああ、もしも神が存在するのならどうかどうか教えてほしい。真実を教えてほしい。
なぜ髪の生え際がこんなにも不名誉な撤退を余儀なくされてしまったのか。
(訳:神のいないこの世界で私の髪が救われることはないだろう)